ルネッサンス・ジェネレーション

科学技術コミュニケーションの事例調査として、11月12日(13:30−18:00)に東京・草月ホールで開催されたルネッサンス・ジェネレーションに参加した。


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全体について

ルネッサンス・ジェネレーション」とは、金沢工業大学の主催により、アーティストのタナカノリユキ氏と知覚心理学・認知脳科学者の下條信輔氏を監修に迎え、1997年から毎年開催されているショウイングプロジェクトである。


<未来身体>という全体テーマの下、毎回アートからサイエンスまで様々な分野のクリエイターを招き、既成のカテゴリーやジャンルでは括りきれないプログラムを届けている。


今年のテーマは「カタストロフィ:破断点」。昨今立て続けに起きている自然災害や人為的破壊などの現象群を、カタストロフィというキーワードで捉える。我々は、カタストロフィのもたらす不安といかに向き合えばよいのか。その予測しがたさ、変化の圧倒的な巨大さとスピードに対し、人類の叡智は何をなしうるのか。


この問いかけに対し、監修の両氏をはじめとし、環境考古学の安田喜憲、ゲノム科学の相垣敏郎、システムバイオロジーの北野宏明の各氏が、時には自身の専門分野を踏み越えつつ答えを探った。また、このテーマをモチーフとしたタナカノリユキ氏演出によるパフォーマンスが、参加者のイマジネーションを触発した。


「現代文明は2070年に崩壊する」「DNAの研究なんかよりも目の前の環境破壊をどうするか考えろ」と語る安田氏の迫力満点・予測不可能なプレゼンテーションを前にして、会場の聴衆ばかりか司会の下條、タナカ両氏にも緊張感が走ったように見えた。安田氏の発言には、そこまで言ってもいいのだろうかと思えるような部分も少なからずあったのだが、それが功を奏して他の話者に「これは予定調和では済まないぞ」「自分も腹をくくって話さないと力負けしてしまうぞ」という意識が芽生え、議論が大変活性化したように感じた。まさに、カタストロフィというテーマにふさわしいトークだったように思う。


今回のプログラムは内容が多岐に渡っていたため、登壇者は互いのプレゼンテーションのすべてを理解していたというわけではないだろう。しかし、議論は次から次へと沸き起こった。彼らは、互いの話す言葉から本質的なキーワードを抽出し、自分なりの文脈に読み替えてコミュニケーションを展開していこうと、神経を最大限に研ぎ澄ましているように思えた。


完全に理解して正面から受け答えすることだけがコミュニケーションではないのだ。このように、直感とイマジネーションによってコミュニケーションの可能性を広げていく方法もあるのだ、ということに気づかされた。


これらの点に関して、サイエンスのイベントとしては概念の扱いが不正確だ、表層的だ、との批判もあるかもしれない。それを認めるとしてもなお、このような、相互に触発しあうコミュニケーションの潜在力について考えざるを得ない。


そもそも今回壇上に、カタストロフィ理論の専門家は一人も立たなかった。下條氏は独学でカタストロフィを学び、解釈し、プレゼンテーションした。これは、考えようによってはすごいチャレンジだ。


しかし、実はカタストロフィの専門家がいるかどうかは本質的な問題ではない。第一線の研究者、クリエイターが、自分の専門分野を越え、あえて安全地帯から飛び出てリスクを負い、知的好奇心とイマジネーションの赴くままに物事を探求していくありさまをライブで体感できることこそに、我々は大変勇気付けられるのだ。


ルネッサンス・ジェネレーションというイベントの面白さはここにある。


こんなふうに自由に生きていいんだ。知的好奇心というのは、本来こういうものなのだ。自分も今から早速何かやってみよう、と、聴衆に感じさせる力。


タナカノリユキ氏の名前に惹かれて会場に足を運んだアート畑の聴衆は、サイエンティストのプレゼンテーションから新しいインスピレーションを受ける。一方、下條信輔氏や他の登壇者のトークを聞きに来たサイエンス畑の聴衆も、アーティストのパフォーマンスに大いに触発される。


普段出会うことの無いキャラクターが一堂に会することで、クロスオーバーなコミュニケーションが生まれる。そのような場をデザインすること、これがこのイベントの核心だと思う。


下條氏は、「ルネッサンス・ジェネレーションでは、すでに分かったことを分かりやすく説明するようなことはしない。我々自身にとっても分からないこと、分かっていることと分からないことのすれすれの部分に取り組みたい」と語る。


科学者も、すでに分かった知識の上にあぐらをかいているわけではない。わからないことだらけの海原に、夢を描いて漕ぎ出しているのだ。われわれとて、それは同じことなのだ。




各セッションの概略

■イントロダクション 下條信輔×タナカノリユキ

ここ数年、巨大台風や地震、テロ、鳥インフルエンザBSEなどの事件が紙面を賑わし、地球温暖化問題への対応も迫られている。このような状況下で人々が不安にかられていることをふまえ、これらの現象をカタストロフィという概念に結び付けて考えることができるのではないかという提言がなされた。

続いて、カタストロフィの基本的性質として、(1)パラメーターがある値を超えたときに劇的に状況が変わる、(2)過去の履歴に影響される、という解説があった。

一方、カタストロフィという概念自体にはネガティブな意味は無く、クリエイターのひらめきなど、ポジティブな意味での構造的なジャンプも含まれることが示唆された。

そして最後に、近代、現代、未来を分けるものは何か?我々人類は、これからどこへ向かおうとしているのか?という問いが投げかけられた。


■「宇宙システムの文明から生命システムの文明へ」安田喜憲

我々は今どこにいるのか?未来には何が待っているのか?我々は生き残るために何をすべきなのか?このような大きな問いから、トークは始まった。

数万年のスケールの気候変動グラフを示し、「宇宙システムは破断的」と氏は言う。それに対して、循環性を与えたのは生命である、と。

現在の人口増加と環境破壊が進めば、2070年ごろ現代文明は崩壊する、と安田氏は予測する。そのとき100億人に達しているであろう人口は半減するであろうという。

過去の文明の滅亡をつぶさに見ていくと、ほとんどの場合環境破壊が主要因のひとつになっているという。環境破壊によって人口収容力が限界に近づいたときに、小さな気候変動があると、それが引き金になって一挙に文明が崩壊するというのだ。

それに対して、森林との共生を軸とした循環的文明は、若干の気候変動に対してサステイナブルであるという。

現代文明をいかに地球に軟着陸させるか?そのために、循環的文明の知恵からいかに学ぶかが大切であり、それができなければ現代文明は崩壊するのだという安田氏のプレゼンテーションは、会場の聴衆も息を呑むほどの迫力だった。


■「寿命、死を決める遺伝子」相垣敏郎

死とは、生物にとってのカタストロフィだと言える。生物の死は、果たして遺伝子によってプログラムされているのだろうか。

相垣氏は、「人間の平均寿命はせいぜい120歳程度が限界。ヒトという生物の遺伝的な限界があるからであり、寿命を決める遺伝子があるということ。だからといって、死を決定する遺伝的プログラムがあるわけではない。生物は最大限生き残ろうとする存在である」という。

ではなぜ寿命が遺伝子で決まっているのか?

「それは、不老不死という機能を進化させるような自然選択メカニズムが存在しなかったから。有性生殖の生物の場合、子孫を残すために必要な一定の生存期間を保証するというのが寿命に関わる遺伝子にとって最も重要な機能である。それ以上生き続けるという機能は、“必要なかった”のだ」と氏は説明する。

つまり、子孫を残した後どのくらい生きようが、いつ死のうが、自然選択メカニズム的には「どうでもいい」ということなのだ。

プレゼンテーションで紹介された、遺伝子操作実験によって生まれた「体中に眼のある」ハエの写真は実にショッキング。しかし彼自身は、特殊な生命を作りたいというような動機はまるで無く、純粋に生命の原理を探求するための手段としてこのような実験を行っているとのことであった。


■「システムの“ロバストネス(頑健性)”をめぐって」北野弘明
(インタビューアー 下條信輔

北野氏は、「ロバストネスとは、内乱、外乱にも関わらずシステムを維持し続ける性質のこと。これは、生命のあらゆる局面に関係する基本的原理であると言える。たとえばガンは、それ自体ロバストなシステムであると言える。」と言う。

「しかし一方で、システムはすべてに対してロバストであることはできない。ある部分に対してロバストであれば、別の部分に対して脆弱になる、というトレードオフが存在する。どんなカタストロフィなら耐えられるのかということを考える必要がある。世界がグローバル化すると、すべてのシステムが一挙に崩壊する危険性がある。」

下條氏の「カタストロフィを回避しなければならないが、人間の知の不透明性という限界があるのではないか?」という問いに対し、北野氏は、「システムの多様性を増大させていくしかない」と答える。

その後、専門家とは最適化された存在であり、それがリスクになりえること、複数の仮説を許容することが必要であること、などが語られた。


■パフォーマンス「カタストロフィ・スタディVol.2―予測不可能性のスケッチ」演出:タナカノリユキ

下條氏の書いた、カタストロフィを暗示させるさまざまな事件、事象についてのテキストを、ステージ前方の役者が直立不動の姿勢で朗読する。

ステージ中央に置かれたベッドに一人暮らしのOL風の女性が現れ、服を着替えたり、テレビを見たり、床に置かれた牛乳を飲んだりして、くつろいでいる。

左右にウェイターとウェイトレスが現れ、それぞれ、ワゴンで白い皿とグラスを大量に運んでくる。ウェイターは皿を一枚一枚、床に重ねていく。ウェイトレスは同じように、グラスを重ねていく。積み重ねられた皿とグラスはみるみる高くなり、ぐらつき始める。突然舞台袖から二匹の犬が現れ、舞台を左から右、右から左へと横切る。皿やグラスの脇を走りながらすり抜ける。

天井から吊るされた白い風船が、空気を注入されて少しずつ大きくなっていく。

今にも何かが起こりそうで、起こらない時間。ステージ中央の女性は相変わらず別途に寝そべりながら、淡々と日常を過ごしている。

人工音によるざわつきを表現したBGM。女性の見ているテレビ画面には、爆発を模したようなCG映像。

会場の緊張感が高まっていく。そして・・・。

(石村)