愛するということ

今日の北海道新聞朝刊「卓上四季」(コラム)は、
国を愛するということについて書かれていた。

教育基本法改正案が最終の質疑に入るにあたり、
「本当に改正していいものなのか」と問いかけている。

リア王の娘たちの話を引いて、「愛は測り難いし、
示し方は多様であろう。たとえ愛がうせようと、
責められるいわれはあるまい」と書いている。


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朝早く起きて、早春のまだ冷たい水で苺を洗っているとき、
ふと、離れたところにいる人に、「これを食べさせてあげたいな」と
思うことがある。

多くの愛って、それぐらいの距離感にあるんじゃないだろうか。
おっぱいを飲んでいるわが子に対するような愛を、すべてのものに注げるわけではない。
愛は距離感と表現を間違うと破綻する。
人を傷つけさえする。


愛という言葉の抱える豊かさを、もう一度考えてみてほしい。


誰か愛する人を思い浮かべて、苺を洗ってみる。
その小さな冷たい苺を口に含んで、なお、大声で愛国心をがなりたてられるものだろうか。



(難波)