セルフ・グローバリゼイション

市民メディアセンターには、誰に頼まれたでもなく、お金のためでもなく、発信したい人たちが集まってきています。
この人たちを突き動かしたものはいったい何なのでしょうか。
彼らが見つけようとしているものはいったい何なのでしょうか。

この疑問を、北海道大学市民メディアセンターの運営責任者をやっている岡橋毅さんにぶつけてみました。
多忙な業務の合間を縫って、岡橋さんが答えてくれたのは、セルフ・グローバリゼーションという言葉でした。これは、「今を生きる僕らにとってレメディーだ」と。



岡橋さんが語る「セルフ・グローバリゼーション」
あるいは「グローバライズド・セルフ」


僕が、市民メディアセンターの運営に関わろうと思ったのは、何かの問題に関してアピールしたいとかそういうことではなく、偉い人だけじゃなくて、世界からいろんな人が来るときに、集まれる場所なり、情報収集できたり、発信できる場所ができたらいいなと思ったからです。
反G8とか、貧困や環境とかの問題を解決したいとか、そういうのがないわけではないけど、もう少し、自分の中から出てきた言葉で、普通に世界の人と関わりたいという気持ちで、これに関わろうと思いました。


市民運動に、特別にかっこいいイメージもないし、デモもしたいわけでもないけど、オルタナティブ、多様な意見は大事だと思う。自分は、大学にいる人間として、やらなきゃいけないという自負もあります。


市民メディアセンターに関わっていると、世界はすぐそこにあります。
G8にもつながっている。


例えば、札幌駅のどこでネットにつながるかを、僕は知っています。
それをちょっと英語にしてネットに載せるだけで、知りたい人に届く。
G8について発信したくて札幌に来ようとしている人が、見てるかもしれない。

僕は、普段、日本語でラジオ番組を作っているけど、札幌市民の声を英語で発信すれば、誰かが聞いてくれます。少しでも自分から情報を伝えようという気持ちがあれば、別にマスメディアの人でなくても、情報発信ができます。

AMARC(世界コミュニティーラジオ放送連盟)の人にこういうの作ったんだって言えば、世界中の人にすぐ届く。実際、去年のサミットでも市民が発信している情報は貴重だったし、混乱する部分もあるけど、全体像を見るためには、大切でした。主流メディアを補っていました。市民メディアは、おっきな公共性の一部を担っています。

ここに関わることで、自分でも役に立てる。
これに気付いたときに、ここに「自発的に」やってくるみんなの気持ちが、ちょっとわかるなあと思いました。

プレカリアート映画祭もやってるけど、今の時代を生きる僕たちは、いろんなことが、不安で、不安定と感じています。


地域に根ざせばいいといわけでもないし、家族があればいいというわけでもない。
それで満たされればいいけど、この社会に生きていると、それじゃ満たされなくなっている。


世界につながっているのがかっこいいということもあるし、そうすることによって、ちっぽけな自分が大きくなったり、自分のつらい人生が楽になったりします。世界の人が、私の発信した情報を見てる、というのを少し感じるだけでいい。そこに安心感を求めているんです。
グローバライズド・セルフと言った方がいいのかもしれない。

今までは英語力がなくちゃ、海外に行くお金がなくちゃ、ちょっと勇気がなくちゃいけないとか、海外につながるというのは、そういうものだったんだけど、今は、そうじゃなくて、身の回りのことを映すだけでも、YouTubeとかで世界中の何千人がみるかもしれない。少なくとも、カメラのボタン押せればいい。
それを流せば、誰かが英訳してくれるかもしれない。
それを、確かめるようなことが、いまここで、市民メディアセンターで行われている。

ここに来ている人たちは、カメラがいかにいろんなことができるかを、いろんな人に届けられるかを知っている。その自信は、大手メディアのジャーナリストより、しっかりして見える。大手メディアのジャーナリストより、ジャーナリストっぽい。


札幌のためって僕らは言っています。
大義名分のためにやってるとは思うし、民主主義、新自由主義がどうのというのはあると思うけど、サミットはきっかけの一つにすぎません。よくよく見ると、僕たちは、世界とつながってる感で充足する個人なんだ。

個のグローバリゼーションはいい。
国境がなくなって、個の中ではつながれています。
一つのレメディー(治療薬)として考えていいんじゃないでしょうか。
そこから動き出す。なにもしないよりはいいと思います。